1899年(明治32年)4月28日 開校 中1・2回

1899年(明治32年)4月28日 埼玉県立第三中学校の開校式が行われ川中・川高の歴史が始まる。第1回の生徒募集は予定人数100名に対して150名が出願。4月20日の予備調査、21日の入学試験には143名が受験。成績佳良な80名を選抜。校長は、さらに特別試験を行うと同時に県と交渉した結果、定員増加と第2年組設置がが認められ、1年生80名、優秀な39名を2年生。計119名であった。開校時の職員は、校長 増野悦興 倫理。教務主任 和田亀之助 数学。教務部幹事 渡邊斧人 体操。生徒取締 佐藤惟昇 国語、歴史。2年監督 古澤與總 英語。1年甲組監督 佐藤藤助 博物、地理、図画。1年乙組監督 水野澄治 漢文、作文。嘱託教員 中島協和 習字。剣道指南 星野仙蔵 剣道。会計庶務 志村巌。庶務 篠原豊洲。以上11名。

4月下旬、新校舎が完成し、5月1日に授業が始まった。さらに5月28日新校舎二階の講堂で、文部大臣、文部省専門学校局長、埼玉県知事、埼玉県選出衆議院議員、埼玉県議会議長など500名以上が参加し開校式が行われた。

開校時の11人 教職員写真に新事実!

以上の記述は1999年10月に発行された百周年記念誌『くすの木』を基にしている。百周年記念誌には開校時の教職員11人の写真も掲載されており、本文の11人の名前は開校時の様子を具体的に記載した「学友会報」創刊号によっている。しかし写真に写っている11人のうち一人だけは本文に記載された人物とは違うことがこのほど判明した。

 2022年9月、横浜市にお住いの方から電話があった。聞けば、開校時教職員の一人古澤與總(よそう)教諭のひ孫さんという。「明治32年12月」の埼玉県第三中学校の教職員の写真があり、その裏にそれぞれの人物の名前が書かれている、という。さっそく送っていただいた。左がその写真と裏書に記された名前と肩書である。

写真そのものは百周年記念誌で掲載したものと同じだが、裏書には「明治32年12月 埼玉縣第三中学校 講堂ニ於テ撮影」と、撮影時期と場所、増野悦興校長以下11人の名前が記されている。しかしその中には本文にある「剣道指南 星野仙蔵」の名前はなく、代わりに「助教諭心得 陸軍歩兵少尉 鈴木」という名前がある。写真では後列右端の人物である。(裏書の名前は、写真を裏返してそれぞれの人物のところに記されているので、左右が逆になっている。)

 改めて「学友会報」創刊号を確認すると、星野仙蔵氏は開校時には確かに「剣道指南」の嘱託として在職していたが、一身上の事情により8月に辞職していた。従って写真を撮影した12月にはすでに第三中学校を去っていたのである。ただ星野氏の後任は、川越の剣道道場明信館(現川越小学校の敷地にあった)初代館長の阿部親昵氏で、一方別の資料で「鈴木庸三」という助教諭が同年11月に助教諭心得として着任し、翌年に「助教諭」の免許を得ていることがわかった。写真に写っている「助教諭心得 鈴木」が「鈴木庸三」助教諭であることは間違いない。

 なお古澤與總教諭は写真では前列左から2人目。古澤教諭は新潟県出身で東京専門学校で学び、明治31年5月に川越高等小学校の嘱託教員になった。百周年記念誌によると、川越高等小学校で第三中学校を受験する生徒の世話をして、合格した生徒の入学と同時に明治32年4月に新規開校の第三中学校に赴任した。開校1年目の第三中学校は優秀な生徒を2年生にしたが(岡田恒輔氏や岩澤新平氏、安部立郎氏など)、その多くは高等小学校で学んだ生徒である。そのような関係から古澤教諭が開校時の2年生の担任(資料では「二年級監督」)になったと考えられる。古澤教諭は英語の教員だったが、2年後の明治34(1901)年3月に郷里の新潟県高田中学校に転任した。ここに20年間在職してこの間教頭にもなったが、大正10(1921)年に辞職した後は、台湾の台北第一中学校に赴任したという。