開校前史

 本校の敷地に河越城を築いたのは、太田道真、道灌父子で1457年の事だという。その後、小田原を本拠とする北条氏の支城となる。1603年に江戸幕府が開かれると北の守りとして譜代大名が川越藩主として在城した。1638年川越大火がありまちの1/3を焼失、翌年川越城主となった松平信定が本格的に城下町を整備した。以後藩主は入れ替わるものの明治維新まで川越藩は継続する。

 藩校、博喩堂・長善館 1827年当時の藩主松平斉典が大手門北側(現市役所)に講学所「博喩堂」を創設した。与力から下級武士までの約100名が入学し朱子学を中心とする儒学が教えられた。1886年松平氏が前橋に転封となると博喩堂は廃止された。松平氏に替わって移ってきた松井氏によって「長善館」が創立された。授業内容は、孝経、論語、詩経、礼記、易経などであった。この長善館は明治維新後に廃止された。これに替わって「文学寮」が設立されるが4年後廃止される。1872年に「学制」が公布されても、幕末以来盛んになっていた寺子屋や私塾が教育機関として重要な役割を果たしていた。

「学制」の公布と郡立中学校  1872年8月に公布され小学校の義務教育化をベースにした近代教育制度。全国に5万3760校の小学校と256校の中学校、8校の大学校(のち7校)を設置するというもの。初等教育と教員養成が急務だったことから「学制」で定められた中学校の開設は遅れる。1880年埼玉県令(知事)は「公立学校設置心得」を通達した。これを受けて1881年8月川越に県下初の郡立中学校「入間・高麗郡立中学校」が開校した。第一期生は55名。必修科目は読物、作文、習字、数学、地理学、修身学、歴史学の7教科。任意科目として物理学、生理学、博物学、経済学、図画学、英学、体操があった。1886年中学校令が公布されると、国の意向をうけた県によって同年7月、郡立学校は廃校に追い込まれる。直接の原因は学務員の選出方法における県と郡の意見の対立である。廃校になった郡立中学校の生徒は中井尚珍が開いた私塾「英和学校」に引き取られた。中井尚珍は後に2代目川越町長になる。1891年、川越町は英和学校を基に尋常中学校予備校を高等小学校内に併設した。この学校が県立川越中学校を誕生させる基盤となった。

 埼玉県立第三尋常中学校の設立 1894年、人口約2万人で財政の豊かな川越町に県立中学校設置運動が組織された。熱心な運動の結果、1895年12月、埼玉県令は埼玉県立第三中学校を川越町に開校する議案を県議会に提出可決された。同時に第四中学校を粕壁に設置する議案が審議され一度は否決されるが復活し可決された。1898年4月15日、埼玉県立第三尋常中学校の設立が正式に認可され、5つあった候補地から郭町が選ばれ、直ちに校舎の新築工事が開始された。